平安時代、貝合わせは珍しい貝を持ち寄り和歌をつけてその優劣を競う遊びでした。斎王良子内親王の「斎王貝合日記」(1040年)には貝合わせについての記述があります。
公式な行事として貝合わせの記述が有るのは、1162年、二条院の后、藤原育子(父、藤原忠通)の立后の後に催された貝合わせです。天皇家、摂関家が後見となって開催されました。物語では『堤中納言物語』に貝合わせの詳しい様子が書かれています。こちらは読みやすい現代語訳もありますので、興味のある方は是非読んでみてください。
平安時代末期には「今様」「物合」という遊びが流行しており、貝合わせも「物合」の一つとしてさかんに遊ばれていました。
さて、貝覆いについても記述が残っています。当時は主に宮中で遊ばれていた貝覆いですが、私は先にあげた藤原育子と同時代に生きていた後白河院寵姫、平滋子に注目しています。
平安時代の歌人、藤原俊成の娘、建春門院中納言は平滋子に仕えていました。「たまきはる」という自身の日記の中で、貝覆いや貝桶についての記述があります。
江戸時代の有職故実の学者、伊勢貞丈は「二見の浦」にて六条院高倉院の頃に始まったのではないかと書いています。六条院高倉院の時代は、平清盛や後白河法皇の世でありますので建春門院平滋子などは、おそらく貝覆いで遊んでいたことでしょう。
当時に思いをはせますと、私どもで実際に貝覆いを製作してみると、ゲームが面白く出来るくらいに柄や形、大きさを揃えようとすると貝殻の数はゲームで使用する数の3倍は必要になります。ですので、当初から360個の貝殻で貝覆いをしていたわけではないと思われます。
藤原摂関家の衰退、そして平清盛、平氏の世になり鎌倉時代へと時代が移り変わる中で、物合わせとしての貝合わせは記述がなくなってゆき、貝覆いの記述が増えてゆきます。
『とりかへばや物語』や『源平盛衰記』には貝覆いについての記述があり、鎌倉時代の記述には出貝、地貝に分け、円形にならべて相方を捜す貝覆いが遊ばれていたことがうかがえます。
その後、貝覆いは「歌かるた」のもとになったともいわれていますし、豪華な貝桶や360個の貝殻に源氏物語絵巻などを描いて婚礼道具にしたのは、室町時代頃からのようです。
貝合わせ貝覆いというと平安時代というイメージがありますが、実は平安時代以降も長く遊ばれてきたものです。いつの頃からか、貝合わせと貝覆いは混同されるようになりました。貝覆いでも貝を合わして遊ぶのですから、貝覆いを貝合わせといっても特に差し支えはないように思いますが、未来において平安時代の和歌を詠んだ貝合わせのことを貝覆いだと勘違いされる可能性もありますから、貝合わせと貝覆いが別の遊びであることを私どもではお伝えするようにしています。
五節句の上巳(雛祭)ではもちろんのこと、七夕にも「七遊」として、「歌」「鞠」「碁」「花札」「貝合」「楊弓」「香」が遊ばれていたとも言われています。明治6年(1873年)の改暦の際に当時の政府は式日としての五節句を廃止しました。太陽暦となったことから、本来の五節句の季節と暦の日にちがずれてしまい、五節句が次第に親しまれなくなったのも、貝合わせ遊びをしなくなった原因の一つかもしれません。
貝合わせ貝覆い とも藤
佐藤朋子
2020年05月の投稿
温かいゲストの皆さまと和菓子とお抹茶も皆さまで頂きました。










耳盥と角盥 ~お姫様の日用品~
貝合わせ貝覆いとも藤
佐藤朋子
耳盥という骨董品があります。漆器の盥でふちに耳のような取手が付いています。かつて、私たち日本人はお歯黒の習慣があり、耳盥はお歯黒の際に使われた盥です。一方、角盥の用途はもう少し広いようです。角盥も漆器の盥でふちに角が左右4本付いています。古の人々は着物や装束を着ていましたので袖が邪魔にならないようについていたとも、持ち運ぶ際に使っていたとも言われています。この角盥は絵巻などでは病の場面で良く見かけます。吐き戻したものをうける盥としてです。また出家の場面にも良く描かれています。髪を剃り落す際に角盥でうけています。
角盥は現代人の洗面器と似たような使い方です。
人は時に様々なものに夢中になり収集するものですが、私の場合は耳盥と角盥がそのアイテムでした。いずれも骨董品ですから簡単に手に入りません。耳盥は3つ、角盥にいたってはまだ所有してもいません。しかし、私はこの情報化社会の中で「耳盥」と「角盥」の情報を収集しています。自分が何故この盥に魅了されているのかをもっと深く知りたいと思っています。
「耳盥」について思いを馳せるとき、お歯黒について知らねばなりません。お歯黒とはまたの名を「鉄漿、かね」歯を黒く染めるもので、江戸時代まで日本の風習として根付いていました。実際に虫歯予防に有効であったそうです。今では信じられないことですが、大人の女性は皆、お歯黒をしていたのです。ですから耳盥も日々の日用品として使われており、婚礼道具の一つでした。
「耳盥」も「角盥」も今では誰も日用品として使っていません。かつては日本人女性の誰もが使用していた日用品が消えてしまったことに、ホームシックのような強烈な寂しさを私は感じています。どうしてこんなにも寂しいのか、それは「耳盥」と「角盥」についてもっと知ってゆけばわかるのかもしれません。そして私の他にも同じようなことを感じている方がいるかもしれません。
心游舎のfacebookにて
2020.5.20 コラム, 開催中・開催予定のイベント

心游舎
https://shinyusha.or.jp/
海と蛤と私たち
貝合わせ貝覆いとも藤
佐藤朋子
こんにちは。私は蛤の貝殻を扱う仕事をしています。蛤の貝殻を仕入れて、表面にへばりついている殻皮という皮を剥がし、身と蓋をつなげている蝶番を外して、一つ一つサイズを計り、表面の色や柄別に木箱に仕舞います。棚には何千個も蛤の貝殻がありますよ。
蛤の貝殻を買う人は絵画教室や書道教室などの先生や生徒の方、美術館や博物館の方もいます。皆さん「貝合わせ」という工芸品を創る為に買われるのです。
もともと「貝合わせ」とは平安時代に貴族のお姫様達が遊ばれていた遊戯(あそび)です。古い時代には海で拾った貝殻を「洲浜」という磯や浜辺をかたどった物の上に置いて、海の景色をミニチュアで造り、その造った物に合わせた和歌を詠み合って遊んでおられました。平安時代の終わり頃から江戸時代までは蛤の貝殻を円形に並べて遊ぶ「貝覆い」という遊びもありました。長い年月の中でこの「貝覆い」という遊びともともとあった「貝合わせ」の名前が混ざって、今では「貝覆い」の遊びのことを「貝合わせ」と言っています。
さて、蛤についてご紹介しましょう。蛤はあさりなどと同じ二枚貝。鉄分や亜鉛が豊富ですので貧血予防に効くと言われています。形はおにぎりに似た三角形。内側には人間の歯と同じように歯があります。この歯の部分はとても複雑に噛み合っているので、他の蛤の貝殻とは噛み合いません。このことから「縁結び」「良縁」「夫婦円満」といった縁起物として「貝合わせ」をお嫁入りに持って行くようになりました。「貝合わせ」は「貝桶」という六角形や八角形の形をした桶に入れて婚礼の日には大切に扱われました。
残念なことに今では様々な理由から蛤の漁獲が減っています。縄文時代の貝塚からは多くの蛤が出土しており、古事記にも登場する蛤。海と蛤と私たち日本人の間に育まれた長い歴史が、どうぞこれからもずっと続いていきますように。
-1024x1024.jpg)
・とも藤貝合用 蛤貝「月」 (8.5cm~9.5大蛤)仕様
・桐箱、保管用黄袋、ミニ毛氈付き
*とも藤の貝合わせは1点物です。
作品の価格は貝殻の大きさ、彩色によって変わります。
雲錦は春の桜と秋の紅葉が描かれた文様。
桜と紅葉が両方描かれており、一年中お使いいただけます。
桜を雲に、紅葉を錦に見立てることから雲錦と言われます。

外側:薬玉 内側:享保雛
・とも藤貝合用 蛤貝「月」 (8.5cm~9.5大蛤)仕様
・桐箱、保管用黄袋、ミニ毛氈付き
*とも藤の貝合わせは1点物です。
作品の価格は貝殻の大きさ、彩色によって変わります。
- TOP
- ブログ
貝合わせ遊び
出張体験会
出張体験会
様々なイベントに、貝合わせ遊びをお持ちします
蛤貝殻の販売
について
について
商品に関するお問い合わせ、蛤貝殻の販売はこちら