カテゴリ:洲浜會
平安装束 胡蝶の会 役員会合
2023.7.23 ブログ, 洲浜會 貝合わせ, 貝合わせ貝覆いとも藤
ご興味のある方は是非ご連絡ください。
https://youtube.com/shorts/CTMcKon8ags?feature=share
洲浜や島台については、洲浜會として私1人の学びの場でしたが、思わぬ形で、お話しする機会をいただきました。
私の活動の中でも貝合わせに隣接しているという意味で始めた傍の学びですが、今回、さらに結納について学ぶ良い機会になりました。
また後日、YouTubeでご覧いただけます。
「常夏」の撫子、玉鬘
~7月7日の瞿麦(なでしこ)合わせ~
貝合わせ貝覆いとも藤
佐藤朋子
984年7月7日、藤原道長の姉、藤原詮子(ふじわらせんし)主催の「なでしこ合わせ」が執り行わました。
おおまかに洲浜を紹介しましょう。
洲浜は左右2基づつ、左第1の洲浜には小さな垣根に撫子2株を植え、鶴が立っている盆景で歌を3つつけたもの。左第2の洲浜には、瑠璃の壷に撫子の花を指し、虫かごが置いてあって歌をこちらも3つ添えています。洲浜の撫子は金銀などで製作された造り花。歌の内容は七夕、織姫牽牛や撫子の美しさを歌ったもの。
洲浜をつくり、歌合わせをするのは、当時流行の貴族たちの遊びであり、撫子の他に様々な「合わせもの、物合わせ」があります。現代の人々は七夕と言えば笹飾りがメインで、乞巧奠を模した飾りをする人も梶の葉を盥に浮かべるくらいです。撫子はそもそも秋の七草ですから、七夕に花の印象、ましてや撫子が七夕の花であると思う人はほとんどいません。
これは現代のカレンダーが新暦によるもので、旧暦と新暦の暦のずれがこのような事態を招いています。
源氏物語で撫子といえば第二十六帖「常夏」に登場する玉鬘です。玉鬘の母は「夕顔」。「夕顔」の娘が「撫子=玉鬘」。「夕顔」と「撫子」の母娘なんて美しいですね。物語では母、夕顔が撫子の花に手紙を添えて玉鬘の父親である頭中将に「娘に情けをかけてください」と訴えていますし、玉鬘の六条院の住まいには撫子が咲き乱れています。
8月生まれの私は源氏物語で一番始めに好きになったのは「夕顔」でした。夏の儚い花をイメージする姫君は身体の弱かった小学生の自分とどこか重なるような気がして、自分には不幸な恋愛しか起こらないんじゃないか、とヒロイックな妄想に浸っていたものです。一方、娘の玉鬘の印象は私のなかでは「しっかりしてるひと」その美しさは夕顔ゆずりでも中身はしっかりとして「生き抜く」イメージ。光源氏からは「撫でたくなるほど可愛い子」と言われて大切にされましたが、実際の玉鬘は堅実な結婚を選びます。
江戸時代、七夕の夜には「貝覆い」をしたと御所に仕える女官達によって書き継がれた日記「御湯殿上日記」には書かれています。おそらくその際に遊ばれていた「貝覆い」には源氏物語絵が描かれていたでしょう。七夕の夜は「玉鬘」を採った人が勝ちなんてルールがあったかもしれないと、撫子の無い七夕飾りを設えながら思いを馳せています。
*なでしこ(瞿麦、くばくともよむ、石竹とも=いずれも撫子のこと)
昭和の婚礼~母と叔母の婚礼より~
私の幼少期
縁結び、良縁祈願、夫婦円満の象徴である「蛤」と「貝合わせ」の仕事を始めたことで、婚礼に関係する書籍を様々に集めるようになりました。特に「日本の婚礼」については、幼少期より興味のあるテーマでしたので深い関心があります。
私は幼少期、京都の呉服店の長女として祇園祭の山鉾町のなかで育ちました。京都の町家では住居と商いをしているスペースが一体となっていて、子供は店の隅で育ちます。着物の匂いが充満した室内で家紋がずらりと並んだ紋帳や色見本帳、着物雑誌などを絵本のようにして毎日見ていました。私だけが特別ではなく、その辺りの子供は誰もがそのように育ったのです。時代は高度経済成長期で、両親の日々の暮らしは嵐のような忙しさでした。
当時の私のお気に入りは店にかかっている大きな舞妓さんのカレンダー。眺めても眺めても見飽きることがありません。端から端までくまなく眺めていました。艶やかな振袖や帯にも目がありません。親の目を盗んで生地の表面を撫でていました。3歳の頃にははっきりと自分の好きな柄があって、それはやはり花柄です。橘も好きでした。ですので、自分の為に仕立てられた七五三の着物が出来上がって来た時には「がっかり!」着たい柄と全然違うのでかなりしっかりと駄々をこねた覚えがあります。そんな私が何よりもときめいたいたもの、それが婚礼衣装です。白無垢や色打掛に心が躍りましたし、高級感溢れる留袖も好きでした。
婚礼により深い興味を持ったのは中学生の時に大阪の民族学博物館に校外学習で訪れた時です。そこで世界の結婚式、世界のお葬式というようなビデオを見たのですが、なぜか面白くてたまらなくて夢中になってしまい、グループから離れて一人で何度も再生しました。それから何十年後、まさか自分が貝合わせの仕事をするとは当時は思いもよりませんでした。
日本の婚礼
日本では婚礼は夜に行ないます。
あかりをつけましょ ぼんぼりに
という、雛祭りの唄にあるように夕暮れから行なっていました。婚礼とは両家を結ぶための儀礼です。古くは数日かけて行なっていました。ちょうどお正月のようだと私は思っています。大掃除があり、大晦日があり、お一日、三が日、七草粥、松の内。一連の時期をお正月というように、婚礼もお見合いから結納、荷送り、輿入れ、婚礼、お色直し、床入り、里帰りと他にも様々ある沢山の儀礼が連なったもの全体が婚礼です。しかし、時代の変化とともに「儀礼」は「儀式」になってゆき、婚礼は結婚式と言われるようになってゆきます。結婚式のあり方は戦後に顕著になってゆきました。都市部ではホテルが宴会場を結婚式場として挙式と披露宴をパッケージにして商品化するようになり、地方でも結婚式場が出来るようになると、同じ頃、旅行会社は新婚旅行を商品化、結婚式と新婚旅行はセットで行なわれるようになります。さらに家具店は婚礼家具を配送まで込みのセット売りを開始、まさにウェディング産業の黎明期、お金をかけた挙式披露宴が沢山行なわれました。私の母は昭和40年代半ば、叔母は昭和50年代半ばに結婚しましたが、まさにそのような時期でした。
母の結婚
私の子供の頃、押入の隅にとても可愛いスーツケースがありました。母の新婚旅行の時のものです。とても洒落たデザインで確かに捨てるには惜しいものでした。母の結婚のスタートは「お見合い」からです。滋賀県彦根出身の母は、お見合い~里帰りまでという古い時代の婚礼と、結婚式~新婚旅行という新しい時代の結婚が入り交じった結婚をしています。
昭和40年代半ば、母はお見合いをして父と出会いました。当時、すでに恋愛結婚の人もいたそうですが、お見合いは主流でした。お見合いではありましたが本人の意思も尊重されていたそうです。また、今ではあまりしなくなったことですが、当人達に結婚の意思が芽生えた頃に「聞き合わせ」をしたそうです。
「聞き合わせ」は当人の親や親戚が相手の実家に近しい人に当人の評判を聞いて回ることです。この関はなかなかの難関で、「聞き合わせ」の内容によっては破談になったりもめたりします。両親は無事に「聞き合わせ」の関を突破し、二人は晴れて世間に認められたカップルになりました。
仲人さんはお見合いにも関わった方がされ、仲人さんが結納を母の家に持って来られます。家具店で婚礼家具をそろえ、自宅の座敷に結納飾りや結納品や婚礼家具を並べ立てます。結婚式の前日までに様々の方がお祝いを持ってこられるのですが、お祝いを受け取り、「おため」を返して、結納飾りや、結納品、婚礼道具飾りを見てもらいます。今では信じられないようなことですが、当時その辺りの土地では当たり前のことだったようです。
「荷出し」の日にはトラックいっぱいに婚礼道具を積んで、トラックは紅白の布で飾られます。母はその日は着物を着てトラックの前で記念撮影。幸せな笑顔で写っています。
いよいよ結婚式の日、自宅にはいつも自分が利用している美容室から美容師さんが来て、着付けや化粧をしてもらいます。着付けてもらうのは白無垢に白打掛、文金高島田に角隠しです。戦前は地毛だったようですが、母の頃にはカツラがほとんどだったようです。親戚も集まりあれこれと手伝います。着付けが終わると仏壇に手をあわせ、両親に挨拶をして家を出て、町内を歩きます。嫁披露、「嫁見」です。お菓子なども撒いたそうです。歩く時は自身の叔母と着付けをした美容師が伴います。その後には両親や兄弟なども一緒に歩いて嫁入り行列です。3歩歩いておじぎ、3歩歩いておじぎを繰り返したそうで、着物は重いし、文金高島田角隠しは重いしなかなかの苦労だったそうです。
一通り町内を歩き、タクシーに乗り込みます。この辺りからが現代風。母は京都の松尾大社で挙式と披露宴を行ないました。神前での三三九度の後はウェディングドレスに着替えてケーキカット、お色直しはあんみつ姫のような姿に変身です。当時の写真を見ると結婚する当人二人が結婚式を楽しむ様子が伺えます。
かつて日本の婚礼は自宅での人前式でした。神前式は大正天皇の神前結婚式から流行しだしたといわれています。自宅での婚礼は座敷に屏風を立て、集まった人々の前で両家が結ばれたことを見てもらい、そのあと祝宴をします。宴は当人二人の楽しみというよりは、両家、親族などの為のものでした。
さて、母と父の披露宴に戻ります。宴席が終了するとその足で新婚旅行に行くのが当時の流行でした。母と父はお揃いの生地で作ったスーツを来て、皆に見送ってもらいながら出発したそうです。行き先はグアムでした。ハネムーン旅行として旅行社が売り出していたものを申し込んだそうです。
叔母の結婚
さて、母の結婚から10年後の昭和50年代半ば、母の9歳年下の妹である叔母の結婚式が執り行われました。10年の間に世間の結婚事情はどのように変わったのでしょうか。また、父の仕事先の九州に嫁いだ母と、地元の近い農村地域の集落に嫁いだ叔母とでは事情が違います。
叔母は恋愛結婚でした。お見合いをする人もまだまだいたそうです。さて、「恋愛結婚」の場合、「仲人さん」ってどうやって決めるのでしょう。
叔母によりますと、恋愛からプロポーズを終えると、結婚の意思を両親に伝え、承諾されると親が仲人さんを捜してくれるのだそうです。叔母の場合は近い地域の男性との結婚でしたのでそうだったのかもしれません。母の結婚から10年が過ぎ、「恋愛結婚」という画期的なスタイルで始まった叔母の結婚ですが、嫁ぎ先が地方の農村地域であったことから古い時代の婚礼を彷彿とさせる段取りとなってゆきます。
親が探してくれた仲人さんは両家の間を取り持つひとで、結婚前の取り決めや結婚後のごたごたまで親身になってくれる存在という印象だったそうです。当時の人々にとって仲人さんは結婚を執り行う為に絶対的に必要な存在でした。新郎新婦は両親だけでなく仲人さんの言うことを良く聞いて、新しい人生に波風なく舵を切らねばなりません。
婚礼家具は家具店でそろえたもの、応接セットのオプションもつけて、白もの家電も一通りそろえます。結納の日に仲人さんが結納を持って来られます。結納飾りや結納品、婚礼家具を並べ立てるのは母の時と同じです。婚礼家具などを新居へ運び入れる「荷送り(荷出し)」日には叔母は着物を着ています。たっぷりと婚礼家具が積まれたトラックを撮影しています。トラックは1台ではなさそうです。運び入れた後に手伝いに来てくださった男性陣に瓶ビールでおもてなしをしている写真などが残っています。この日もひとつの通過儀礼のようです。
結婚式当日。母同様、自宅に行きつけの美容師さんを呼んでお支度をして、嫁披露(嫁見)です。自身の叔母と美容師を伴ってお菓子も撒いたそうですが、母の時とは少し雰囲気が違います。写真の中の景色、母の時より少し近代化した街並のなかを歩く姿を見ていると「花嫁さんを見る」と言う風習が薄れ始めているのを感じます。ともあれ、やはりタクシーで移動、当時流行の結婚式場へ、三三九度なども式場で済ませ、披露宴ではウェディングドレスを披露し、和装のお色直し、母の時代にはなかったキャンドルサービスもしています。その後、新郎と新婦は洋装に着替えて新婚旅行へ。場所はアメリカ西海岸ロサンゼルスです。
「恋愛結婚」から始まった叔母の結婚は、旧時代の様式を残しながらもやはり新しいスタイルをさらに取り入れたように思えます。しかし、地方の農村地域で結婚した叔母夫婦には、やはり旧時代の雰囲気が色濃くありました。新婚旅行から帰国後、隣組(町内)7軒へ手みやげを持っての挨拶回りをしたそうです。ちなみにこの7軒、もちろん披露宴にもご出席されていたそうです。叔母の話を聞いて思わず思い出したのは、かつて江戸時代には結納が終わると新婦に近しい7軒のご婦人がお歯黒水を持ち寄って「初鉄漿」というのをしたという古い時代の儀礼のことです。
叔母によると平成の時代がやって来て、隣組(町内)との関係は大きく変化したそうです。特に葬儀場が各地に出来たことで自宅での葬儀が減り、お葬式の手伝いが減ったことは大きいといいます。町内の人が親戚のような近しい関係だった時代は便利さとともに失われてゆきました。
取り残された「結納」
新旧が入り交じった昭和の結婚の形ですが、地域の風習やそれぞれの家の考え、そのときその時の事情によって様々に執り行なわれてきました。
現在の結婚で「結納」の実施率は全国平均13.9%(もっとも多いのが九州、もっとも少ないのは北海道)と言われています。本来「結納」は結婚の口約束を固める儀礼です。「結納」の歴史は大変古く、1600年ほど前の仁徳天皇の時代に行なわれた「納采」が起源と言われています。男性の親が女性の親に贈り物をするというもので現在でも皇室では「納采の儀」が執り行われています。その後、貴族や大名家、江戸時代には裕福な商家などで行なわれるようになり、明治以降は庶民の間でも行なわれるようになりました。
このように大変歴史のある「結納」ですが、今では8割以上のカップルが執り行っていません。結納の会場も式場や料亭などがほとんどで自宅に結納飾りをするケースは稀なもの(もしくはほぼない)となりました。また仲人を立てるケースも少なくなっています。すでに母の時代にはカジュアル化し始めていた結婚のスタイルはさらにカジュアルな形へと加速し、欧米化がかなり進んでいる状態です。
冠婚葬祭は時代の変化とともに移り変わってゆくものですが「結納」には通過儀礼を尊ぶ日本人ならではの風習が数多く残されています。私は「島台」や「洲浜」といった古い婚礼道具に関心があり、婚礼を彩る「結納飾り」についても興味を持っています。「結納」は婚礼の為に室内を飾る、室内を設える(室礼)という点において非常に日本人的な美意識を表現する場です。室礼は平安時代に貴族たちが必要に応じて室内を調えたことが始まります。冠婚葬祭において「飾る、設える」ということは時おりの節目を彩るだけでなく様々な願いも込められています。特に結納飾り、長熨斗(ながのし)・金包(きんぽう)・勝男武士(かつおぶし)・寿留女(するめ)・子生婦(こんぶ)・友白髪(ともしらが)・末広(すえひろ)などはそれぞれに意味があり、日本の古来の文化や価値観を今に伝えるものです。寿ぎの雰囲気を醸し出す為に部屋を飾りで設えるということも、1000年以上前から今に続く文化です。風習の意味を伝える場が失われてゆくのは残念でなりません。
日本人の寿ぎ
古来より日本は、日本の気候風土にあったやり方で様々な儀礼を執り行ってきました。地域ごとの風習や慣習、祭りなどは人々の結びつきをより強固にしてきました。すでに現代では多くの風習や慣習を失い、複雑であったものは簡略化されています。利便性が良くなり、私たちの人生はより自由になりました。選択肢が増え、人生においてより多く自分の時間を持つことが出来るようになりました。結婚式においてやりたいことだけをやれる、そんな時代がやってきたのです。だからこそ、私は選択肢のなかに「結納」もあっても良いのではと思っています。
日本人の寿ぎの形はもっとも私たちらしいスタイルです。何百年の後も日本人らしい婚礼、結婚がどこかに残っていて欲しいと心から願っています。
平安時代、貝合わせは珍しい貝を持ち寄り和歌をつけてその優劣を競う遊びでした。斎王良子内親王の「斎王貝合日記」(1040年)には貝合わせについての記述があります。
公式な行事として貝合わせの記述が有るのは、1162年、二条院の后、藤原育子(父、藤原忠通)の立后の後に催された貝合わせです。天皇家、摂関家が後見となって開催されました。物語では『堤中納言物語』に貝合わせの詳しい様子が書かれています。こちらは読みやすい現代語訳もありますので、興味のある方は是非読んでみてください。
平安時代末期には「今様」「物合」という遊びが流行しており、貝合わせも「物合」の一つとしてさかんに遊ばれていました。
さて、貝覆いについても記述が残っています。当時は主に宮中で遊ばれていた貝覆いですが、私は先にあげた藤原育子と同時代に生きていた後白河院寵姫、平滋子に注目しています。
平安時代の歌人、藤原俊成の娘、建春門院中納言は平滋子に仕えていました。「たまきはる」という自身の日記の中で、貝覆いや貝桶についての記述があります。
江戸時代の有職故実の学者、伊勢貞丈は「二見の浦」にて六条院高倉院の頃に始まったのではないかと書いています。六条院高倉院の時代は、平清盛や後白河法皇の世でありますので建春門院平滋子などは、おそらく貝覆いで遊んでいたことでしょう。
当時に思いをはせますと、私どもで実際に貝覆いを製作してみると、ゲームが面白く出来るくらいに柄や形、大きさを揃えようとすると貝殻の数はゲームで使用する数の3倍は必要になります。ですので、当初から360個の貝殻で貝覆いをしていたわけではないと思われます。
藤原摂関家の衰退、そして平清盛、平氏の世になり鎌倉時代へと時代が移り変わる中で、物合わせとしての貝合わせは記述がなくなってゆき、貝覆いの記述が増えてゆきます。
『とりかへばや物語』や『源平盛衰記』には貝覆いについての記述があり、鎌倉時代の記述には出貝、地貝に分け、円形にならべて相方を捜す貝覆いが遊ばれていたことがうかがえます。
その後、貝覆いは「歌かるた」のもとになったともいわれていますし、豪華な貝桶や360個の貝殻に源氏物語絵巻などを描いて婚礼道具にしたのは、室町時代頃からのようです。
貝合わせ貝覆いというと平安時代というイメージがありますが、実は平安時代以降も長く遊ばれてきたものです。いつの頃からか、貝合わせと貝覆いは混同されるようになりました。貝覆いでも貝を合わして遊ぶのですから、貝覆いを貝合わせといっても特に差し支えはないように思いますが、未来において平安時代の和歌を詠んだ貝合わせのことを貝覆いだと勘違いされる可能性もありますから、貝合わせと貝覆いが別の遊びであることを私どもではお伝えするようにしています。
五節句の上巳(雛祭)ではもちろんのこと、七夕にも「七遊」として、「歌」「鞠」「碁」「花札」「貝合」「楊弓」「香」が遊ばれていたとも言われています。明治6年(1873年)の改暦の際に当時の政府は式日としての五節句を廃止しました。太陽暦となったことから、本来の五節句の季節と暦の日にちがずれてしまい、五節句が次第に親しまれなくなったのも、貝合わせ遊びをしなくなった原因の一つかもしれません。
貝合わせ貝覆い とも藤
佐藤朋子
歌合、物合と貝合考
春日大社若宮社に残る木製磯型
貝合わせという遊びは、斎王良子内親王の「斎王貝合日記」(1040年5月6日)に記載されている物が一番古いとされます。
平安時代、貝合わせは珍しい貝を持ち寄り飾り物(洲浜)を作り、和歌を詠んで、洲浜の出来映えや、貝の優劣、和歌の善し悪しで勝敗を決める遊びでした。
斎王良子内親王の貝合わせでは貝合わせにおける洲浜の様子が記述に詳しく残されています。
洲浜とは、吉祥の雰囲気をその場に作りだす、飾り物、作り物の一種です。洲浜の他には祇園祭の山や鉾の原型となった「標の山」という飾り物、作り物があります。洲浜は歌合わせや貝合わせで用いられ、吉祥の要素を取り入れた鶴や松、蓬莱山など荘厳に飾り付け、ジオラマのように造られていました。斎王良子内親王の貝合わせでは左方、右方に分かれ、それぞれ三基づつの洲浜が造られました。右方の3つの洲浜のなかに大蛤を題材にした洲浜があり、貝合わせでも蛤を用いていたことがわかります。
公式な行事として貝合わせの記述が有るのは、1162年、二条院の后、藤原育子(父、藤原忠通)の立后の後に催された歌合、貝合わせです。天皇家、摂関家が後見となって開催されました。
藤原忠通は1135年に、春日若宮社神殿を今の場所に造営しました。
春日大社若宮社の御神宝のなかには歌合、斎王良子内親王の貝合わせの洲浜を連想させる興味深いものがあります。「国宝 若宮御料古神宝類 木造彩色磯型残欠」です。
若宮社の御神宝にはこの木造の磯型以外にも鶴や木をかたどったもの、洲浜形には釘あとも残っており、当時の歌合に用いられたものと考えられています。
春日大社には、おん祭に先立って行なわれる「装束賜り」の威儀物用いられる調度品として「千切台」や「盃台」が今に伝わっております。こういった調度品は、現代の結納飾り「島台」につながっており、日本人ならではの和様が表現されたこれからも残してゆきたい文化です。
平安時代に遊ばれた貝合わせは、同時代に遊ばれていた蛤の遊びである貝覆いの遊びの呼び名として今では一般的になっています。しかし、本来の和歌を詠んで遊ぶ歌合わせとして「貝合」の様子にルーツを持つものが、現代に「島台」として婚礼道具となっているのは大変興味深いことです。
貝覆いの遊びは、蛤の貝殻を納める貝桶、そして彩色された貝覆いが婚礼道具として、特に江戸時代には重要なものでした。しかし現代の婚礼では、婚礼のために貝桶と貝覆いを仕立てる人はほとんどいません。着物の文様として、貝桶や蛤が残っているのみです。一方結納飾りとしての島台は現代でもつくられ、使われています。
私は「島台」には、平安時代からの日本人の美意識が詰まっているように思います。その元となる「洲浜」は、日本の身近な風景を縁起の良い飾り物として造形したのが始まりでした。春日大社若宮社に残る木製磯型を見ると、平安時代末期の藤原氏の人々を息遣いを感じずにはいられません。歌合は時に権勢を表すものとして行われました。磯型などを奉納することで、歌合の盛会と自らの一族の繁栄を願っていたのかもしれません。
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