2020年11月の投稿
12月3日(木曜日)より、「はまぐり縁起物」展を開催致します。
皆様のご来場を心よりお待ちしております。
貝覆い遊びの起源
貝合わせ貝覆いとも藤
佐藤朋子
「貝覆い」とは平安時代に生まれたもので、蛤の貝殻を身と蓋にわけ、貝殻の外側の柄で対になる物を探す遊びです。現代ではこの遊びは「貝合わせ」と呼ばれており、とも藤でも「貝覆い遊び体験」のことをわかりやすく伝える為に「貝合わせ遊び体験」としています。
「貝合わせ」とは平安時代に盛んに行なわれた「物合わせ」の一種であり、左右に分かれたチームが何台かの洲浜をつくり競います。貝は蛤に限っていません。のちに「貝合わせ」は遊ばれなくなりましたが、「貝覆い」の遊びは室町時代、江戸時代まで長く遊ばれました。長い時代の変化の中で「貝覆い」と「貝合わせ」は名前が混同して行ったと言われています。
2017年に私が蛤の貝殻の販売をスタートして4年になり
現在、私の手元には4千個の蛤の貝殻があります。
収集する中でわかったことがあり、2020年現在の考察として書き留めておきます。
まず、貝覆いの起源にも関係していることだと思いますが、貝覆いを制作する為の貝殻は、浜で拾った物ではなく、食べた後の蛤貝殻ではないかと思います。
貝覆いの制作には、外側の貝殻の柄、サイズが似通ったものをそろえなくてはなりません。貝覆いの制作では内側に興味をもたれることが多いのですが、実は外側の貝の柄をどうのようにそろえるかがゲームを盛り上げるポイントです。
わざと似通った物を混ぜたり、逆に柄が個性的なものを混ぜたりします。柄に個性があるのに見つけられなかったりすると非常に面白いのがこの遊びです。貝殻の外側にキズがあると、二枚貝の場合、身と蓋の両方の同じような場所にキズが出来ることが多く、キズを目当てに対の貝が見つけやすくなりますから、キズのある貝はゲームには向いていません。
また蛤の貝殻の色で最も多いのはグレーがかったもの、2位が白地で耳が黒いもの、3位が全体が白いもの、その他、紫や茶色のものがあります。このうち面白くゲームが出来る、向いている物は2位の白地に黒耳のものと3位の白いものです。
このように貝覆いを面白く楽しもうとすると相当量の蛤貝が必要になり、それを浜で集めるのはかなりの困難です。
浜に落ちている貝は日光に晒されているため、貝殻の表面のエナメル質が剥げていたり、内側から石灰質が染出ていたりするものが多い為です。蝶番でつながれたままの貝も落ちてはいますが、ゲームをつくる為だけに蛤貝の採集が行なわれていたのであれば、収集作業はかなり大規模であり、採り方、採集場所や採集季節も記録として残す必要があります。
蛤の貝殻は陶器くらいには割れます。採集場所から運ぶにはそれなりの梱包も必要です。そういったことをしていたのであれば、そのような言い伝えや文献が日本のどこかにあっても良いはずです。また現地で食べた貝殻を運んだという記録が今後出てくればそのようなことがあった問いえると思いますが今の所、そういった話も聞きません。
鎌倉時代に描かれた春日権現験記絵を見ますと蛤が屋敷に運び込まれている様子が描かれています。高貴な人に納められる貝はおそらく、キズが無く、サイズもそれなりにそろえて納めたはずです。例えば、茶色い蛤は水がきれいでない場所のものといわれているという話を聞きました。本当かはわかりませんが、都に納める物はきれいな物の方が良いわけで、白い物が好まれたと思うのが自然です。
蛤の調理としては、古事記には膾が出てきます。焼き蛤にすると貝覆い用には出来ませんから、蒸すか茹でるかして食べたものかもしれません。
京都は応仁の乱で町が焼け野原になり、多くのものが消失しています。平安時代の貝覆いも文献で文字でしか残っていません。
貝覆い用の蛤貝を集めよ、と指示したと言うような文献が今後出てくれば、また貝覆いの起源について新しく考え直さねばなりませんが、今の段階では貝覆いという遊びの発生には、まずその遊びが可能な、キズも無く、色柄、サイズが揃った貝が京都の貴族の屋敷にあってこそ、と思います。貝覆いのセットがある程度、容易につくれたから貝覆いという遊びが生まれたのではないでしょうか。
今ぞしる 二見のうらのはまぐりを 貝あはせとて おほふなりけり
私はこの歌が大好きです。とも藤の屋号「貝合わせ貝覆いとも藤」もこの歌のイメージからのものです。「落ちている貝だけで貝覆いをつくりましょうよ」みたいな会話がもしかすると女達の間であったかもしれません。
日本の蛤の漁獲は平安時代よりもずっと少なくなっており、宮崎県では昨今、ゼロとなりました。平安時代には今よりももっと浜に蛤が落ちていて、中には遊びに使えるようなきれいな物があったかもしれません。
自分たちで拾ったものでつくりましょうよ、というのはいかにも女性の考えそうなことで、この頃の女性達は、衣服を縫うことをはじめ様々に手づくりするのが普通でしたから、貝を拾ってゲームをつくることもあったのかもしれない。
ただ、それは起源ではなく、そもそも元になる貝覆いがあってこそではないかと思いを巡らしています。
ビーチコーミング(漂流物収集)は古くから世界的にあることで、海からの漂流物を集める行為は人々を魅了してきました。また平安時代には螺鈿用の夜行貝を沖縄諸島から調達しており、沖縄では古くから貝殻の輸出を産業として行なっていたようです。
日本は海に囲まれた島国ですから、各地で貝殻拾いなどをしていたことでしょう。そしてなかでも美しいものは売買されたかもしれません。平安時代のビーチコーミングに付いて今後も調べてゆこうと思います。
今後も蛤、そして「貝合わせ」「貝覆い」に関する情報を集めて考察を深めてゆきます。