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「常夏」の撫子、玉鬘 〜7月7日の瞿麦(なでしこ)合わせ〜

2020.7.1  コラム, 洲浜會  , , , , , , ,


「常夏」の撫子、玉鬘
~7月7日の瞿麦(なでしこ)合わせ~

貝合わせ貝覆いとも藤
佐藤朋子

 984年7月7日、藤原道長の姉、藤原詮子(ふじわらせんし)主催の「なでしこ合わせ」が執り行わました。


 おおまかに洲浜を紹介しましょう。
 洲浜は左右2基づつ、左第1の洲浜には小さな垣根に撫子2株を植え、鶴が立っている盆景で歌を3つつけたもの。左第2の洲浜には、瑠璃の壷に撫子の花を指し、虫かごが置いてあって歌をこちらも3つ添えています。洲浜の撫子は金銀などで製作された造り花。歌の内容は七夕、織姫牽牛や撫子の美しさを歌ったもの。


 洲浜をつくり、歌合わせをするのは、当時流行の貴族たちの遊びであり、撫子の他に様々な「合わせもの、物合わせ」があります。現代の人々は七夕と言えば笹飾りがメインで、乞巧奠を模した飾りをする人も梶の葉を盥に浮かべるくらいです。撫子はそもそも秋の七草ですから、七夕に花の印象、ましてや撫子が七夕の花であると思う人はほとんどいません。
 
 これは現代のカレンダーが新暦によるもので、旧暦と新暦の暦のずれがこのような事態を招いています。


 源氏物語で撫子といえば第二十六帖「常夏」に登場する玉鬘です。玉鬘の母は「夕顔」。「夕顔」の娘が「撫子=玉鬘」。「夕顔」と「撫子」の母娘なんて美しいですね。物語では母、夕顔が撫子の花に手紙を添えて玉鬘の父親である頭中将に「娘に情けをかけてください」と訴えていますし、玉鬘の六条院の住まいには撫子が咲き乱れています。


 8月生まれの私は源氏物語で一番始めに好きになったのは「夕顔」でした。夏の儚い花をイメージする姫君は身体の弱かった小学生の自分とどこか重なるような気がして、自分には不幸な恋愛しか起こらないんじゃないか、とヒロイックな妄想に浸っていたものです。一方、娘の玉鬘の印象は私のなかでは「しっかりしてるひと」その美しさは夕顔ゆずりでも中身はしっかりとして「生き抜く」イメージ。ちょうど撫子の花の印象と重なります。


 江戸時代、七夕の夜には「貝覆い」をしたと御所に仕える女官達によって書き継がれた日記「御湯殿上日記」には書かれています。おそらくその際に遊ばれていた「貝覆い」には源氏物語絵が描かれていたでしょう。七夕の夜は「玉鬘」を採った人が勝ちなんてルールがあったかもしれないと、撫子の無い七夕飾りを設えながら思いを馳せています。


*なでしこ(瞿麦、くばくともよむ、石竹とも=いずれも撫子のこと)
 

昭和の婚礼〜母と叔母の結婚〜

2020.6.28  コラム, 洲浜會  , , ,

斎王良子内親王「斎王貝合日記」

2020.5.20  洲浜會  , , , , ,

平安時代、貝合わせは珍しい貝を持ち寄り和歌をつけてその優劣を競う遊びでした。斎王良子内親王の「斎王貝合日記」(1040年)には貝合わせについての記述があります。
 公式な行事として貝合わせの記述が有るのは、1162年、二条院の后、藤原育子(父、藤原忠通)の立后の後に催された貝合わせです。天皇家、摂関家が後見となって開催されました。物語では『堤中納言物語』に貝合わせの詳しい様子が書かれています。こちらは読みやすい現代語訳もありますので、興味のある方は是非読んでみてください。

平安時代末期には「今様」「物合」という遊びが流行しており、貝合わせも「物合」の一つとしてさかんに遊ばれていました。

 さて、貝覆いについても記述が残っています。当時は主に宮中で遊ばれていた貝覆いですが、私は先にあげた藤原育子と同時代に生きていた後白河院寵姫、平滋子に注目しています。

 平安時代の歌人、藤原俊成の娘、建春門院中納言は平滋子に仕えていました。「たまきはる」という自身の日記の中で、貝覆いや貝桶についての記述があります。

 江戸時代の有職故実の学者、伊勢貞丈は「二見の浦」にて六条院高倉院の頃に始まったのではないかと書いています。六条院高倉院の時代は、平清盛や後白河法皇の世でありますので建春門院平滋子などは、おそらく貝覆いで遊んでいたことでしょう。

 当時に思いをはせますと、私どもで実際に貝覆いを製作してみると、ゲームが面白く出来るくらいに柄や形、大きさを揃えようとすると貝殻の数はゲームで使用する数の3倍は必要になります。ですので、当初から360個の貝殻で貝覆いをしていたわけではないと思われます。

 藤原摂関家の衰退、そして平清盛、平氏の世になり鎌倉時代へと時代が移り変わる中で、物合わせとしての貝合わせは記述がなくなってゆき、貝覆いの記述が増えてゆきます。
 『とりかへばや物語』や『源平盛衰記』には貝覆いについての記述があり、鎌倉時代の記述には出貝、地貝に分け、円形にならべて相方を捜す貝覆いが遊ばれていたことがうかがえます。

 その後、貝覆いは「歌かるた」のもとになったともいわれていますし、豪華な貝桶や360個の貝殻に源氏物語絵巻などを描いて婚礼道具にしたのは、室町時代頃からのようです。

 貝合わせ貝覆いというと平安時代というイメージがありますが、実は平安時代以降も長く遊ばれてきたものです。いつの頃からか、貝合わせと貝覆いは混同されるようになりました。貝覆いでも貝を合わして遊ぶのですから、貝覆いを貝合わせといっても特に差し支えはないように思いますが、未来において平安時代の和歌を詠んだ貝合わせのことを貝覆いだと勘違いされる可能性もありますから、貝合わせと貝覆いが別の遊びであることを私どもではお伝えするようにしています。

 五節句の上巳(雛祭)ではもちろんのこと、七夕にも「七遊」として、「歌」「鞠」「碁」「花札」「貝合」「楊弓」「香」が遊ばれていたとも言われています。明治6年(1873年)の改暦の際に当時の政府は式日としての五節句を廃止しました。太陽暦となったことから、本来の五節句の季節と暦の日にちがずれてしまい、五節句が次第に親しまれなくなったのも、貝合わせ遊びをしなくなった原因の一つかもしれません。 
 
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