コラム
桑名の蛤のこと
~「縁」を結ぶ、蛤と松~
貝合わせ貝覆いとも藤 佐藤朋子
三重県桑名市は平安時代から物流の拠点であり、言わずとしれた蛤の名産地です。京都から桑名までは車で2時間弱。とも藤でも年に一度は桑名を訪れて、蛤料理を存分に食べ、時雨煮、蛤の貝殻を買い求めます。
葛飾北斎の「四日市へ三里八丁」には松ぼっくりで蛤を焼いている様子が描かれています。松脂でいぶされ、松の香りも良く、大変美味しい焼き蛤になるそうです。
明治の料理研究家・本山萩舟の「飲食事典」によりますと、江戸時代、宿場茶店では松原に落ちる松ぼっくりを拾い集めて蛤を焼くのがならいだった。昔から松と蛤は相性が良いとされ、松ガサで焼いた蛤には中毒の恐れが無く、また松の木が老衰して枯れかかったとき、根元に蛤の貝殻を埋めたり、ゆで汁をそそぎかけてやると回生する、とあります。
松も蛤も日本では古くから身近でなじみがあるものです。そして良縁祈願の縁起物である「蛤」と相性が良いとされるのが「松」であるというのはしっくりきます。
松の二葉は あやかりものよ 枯れても落ちても 夫婦連れ
これは松の二葉を唄った都々逸です。2本で1組になっている松の葉は枯れて落ちるときも2本のままで落ちますので夫婦円満の縁起物というわけです。
いつの時代もどんな国の人々も、良縁祈願、夫婦円満を願う心は同じ。「婚活」の名の下に熱心にパートナー探しをする人にとって縁結びの縁起物は今も魅力的なもので、蛤にも大いに期待されています。
蛤の仕事をしていますと、お年を召した方が「もう娘も結婚したから縁結びはいらないわ」とおっしゃることがあります。確かに以前は年をとると、「隠居、引退」をして家族や地域のコミュニティなどの狭い世界で過ごすようになる方が多かったと思います。しかしスマホの普及は目覚ましく、どこへも出かけなくて自室にいても、私たちはインターネットを通して様々な地域の人と気軽に出逢うことが出来るようになりました。
私は今の時代は人と人の「縁」というものが変化し昔よりももっと重要なキーワードになっているように思います。「縁結び」は単に結婚相手や彼氏彼女の縁だけを結ぶ物ではなく、ビジネスパートナーや趣味の仲間、新しい1歩を踏み出せる場所、自らを元気づけてくれるあらゆるものなど、多岐にわたっており、つながれた「縁」は果てしなく大きく広がってゆく。そんなイメージが浮かんできます。
「蛤」という「縁結びの縁起物」を取り扱う中で、蛤を手にした方々が多くの「縁」で結ばれてゆきますよう心より祈っています。
お正月の蛤のこと
貝合わせ貝覆いとも藤 佐藤朋子
新年、お正月の楽しみと言えば、おせち料理やお雑煮、京都では蛤のお吸い物も欠かせません。蛤がちりばめられた貝合わせの文様も新春を華やかに彩ります。
蛤は良縁、夫婦円満の縁起物ですから、お正月のおめでたい料理とされますが、明治の料理研究家、本山萩舟の「飲食事典」によりますと、平安時代に清少納言が老後を過ごしたとされる阿波(徳島県)の鳴門海峡のほとり、吉野川河口付近に橅養(むや)というところがあり、昔は全国から京に集まる蛤の選定に橅養産の蛤が標準になったといわれ、師走16日に川開きがあり、その日とれた物が最上とされ、京へ送り二条家から内裏の御用に供せられたと伝えられているそうです。
京の庶民は古くから公家や武家の方々との関わりが様々にあり、庶民の年中行事にもそういったことが影響していますので、京都のお正月に蛤のお吸い物を食べるのも、もしかするとこのことからかもしれません。
鎌倉時代の絵巻物「春日権現験記」には、屋敷に運び込まれる鮑や蛤が描かれています。いずれも大きさがそろったものがぎっしりと積まれており、キズのない美しいものばかりが選ばれ送られて来た様子がうかがえます。
蛤の貝殻をつかった「貝覆い」の遊びは、平安時代に貴族達によって遊ばれていました。蛤の貝殻の外側の柄の相方を捜す遊びで貝殻の大きさや柄が揃っていれば揃っているほど面白くなるゲームですから、楽しもうとするとキズの無い美しい貝殻が沢山必要になります。「春日権現験記」のこの場面を見ていると内裏には、色や柄やサイズがそろった蛤の貝殻が豊富にあり「貝覆い」という遊びが誕生したのもそういったことからであろうと思えます。
蛤はその開いている様子から開運の縁起物とも言われています。栄養もありますので、皆さんも是非、お正月に蛤を召し上がってください。
心游舎 こちらですべての記事をご覧になれます。
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銀座蔦屋書店にて、貝合わせ遊びの実演を行ないました。
ご来場くださいました皆様に感謝しております。
ありがとうございました。
とも藤の貝合わせをお買い求め頂けます。
お近くにお越しの折には是非お立ち寄りください。
12/26〜1月28日まで
銀座 蔦屋書店
フェア 遊べるのが大人
〒104-0061 東京都中央区銀座6丁目10-1 GINZA SIX 6F
03-3575ー7755
https://store.tsite.jp/ginza/
1月3日(日曜日)午後2時より
平安時代の伝統遊戯「貝合わせ遊び」
デモンストレーション(実演販売)しております。
銀座にて作品をご覧頂けます。
お近くにお越しの折には是非お立ち寄りください。
お取扱中12月〜 (貝合わせは1/12まで)
品 銀座店 Shina Ginza
〒104-0061 東京都中央区銀座5-5-6三平ビル1F
https://www.shina-ginza.jp/
おかげさまで大阪、天満橋マニフェストギャラリーにて開催しました「はまぐり縁起物展」は無事に会期を終了致しました。ご来場くださいました皆様ありがとうございました。
12月3日(木曜日)より、「はまぐり縁起物」展を開催致します。
皆様のご来場を心よりお待ちしております。
貝覆い遊びの起源
貝合わせ貝覆いとも藤
佐藤朋子
「貝覆い」とは平安時代に生まれたもので、蛤の貝殻を身と蓋にわけ、貝殻の外側の柄で対になる物を探す遊びです。現代ではこの遊びは「貝合わせ」と呼ばれており、とも藤でも「貝覆い遊び体験」のことをわかりやすく伝える為に「貝合わせ遊び体験」としています。
「貝合わせ」とは平安時代に盛んに行なわれた「物合わせ」の一種であり、左右に分かれたチームが何台かの洲浜をつくり競います。貝は蛤に限っていません。のちに「貝合わせ」は遊ばれなくなりましたが、「貝覆い」の遊びは室町時代、江戸時代まで長く遊ばれました。長い時代の変化の中で「貝覆い」と「貝合わせ」は名前が混同して行ったと言われています。
2017年に私が蛤の貝殻の販売をスタートして4年になり
現在、私の手元には4千個の蛤の貝殻があります。
収集する中でわかったことがあり、2020年現在の考察として書き留めておきます。
まず、貝覆いの起源にも関係していることだと思いますが、貝覆いを制作する為の貝殻は、浜で拾った物ではなく、食べた後の蛤貝殻ではないかと思います。
貝覆いの制作には、外側の貝殻の柄、サイズが似通ったものをそろえなくてはなりません。貝覆いの制作では内側に興味をもたれることが多いのですが、実は外側の貝の柄をどうのようにそろえるかがゲームを盛り上げるポイントです。
わざと似通った物を混ぜたり、逆に柄が個性的なものを混ぜたりします。柄に個性があるのに見つけられなかったりすると非常に面白いのがこの遊びです。貝殻の外側にキズがあると、二枚貝の場合、身と蓋の両方の同じような場所にキズが出来ることが多く、キズを目当てに対の貝が見つけやすくなりますから、キズのある貝はゲームには向いていません。
また蛤の貝殻の色で最も多いのはグレーがかったもの、2位が白地で耳が黒いもの、3位が全体が白いもの、その他、紫や茶色のものがあります。このうち面白くゲームが出来る、向いている物は2位の白地に黒耳のものと3位の白いものです。
このように貝覆いを面白く楽しもうとすると相当量の蛤貝が必要になり、それを浜で集めるのはかなりの困難です。
浜に落ちている貝は日光に晒されているため、貝殻の表面のエナメル質が剥げていたり、内側から石灰質が染出ていたりするものが多い為です。蝶番でつながれたままの貝も落ちてはいますが、ゲームをつくる為だけに蛤貝の採集が行なわれていたのであれば、収集作業はかなり大規模であり、採り方、採集場所や採集季節も記録として残す必要があります。
蛤の貝殻は陶器くらいには割れます。採集場所から運ぶにはそれなりの梱包も必要です。そういったことをしていたのであれば、そのような言い伝えや文献が日本のどこかにあっても良いはずです。また現地で食べた貝殻を運んだという記録が今後出てくればそのようなことがあった問いえると思いますが今の所、そういった話も聞きません。
鎌倉時代に描かれた春日権現験記絵を見ますと蛤が屋敷に運び込まれている様子が描かれています。高貴な人に納められる貝はおそらく、キズが無く、サイズもそれなりにそろえて納めたはずです。例えば、茶色い蛤は水がきれいでない場所のものといわれているという話を聞きました。本当かはわかりませんが、都に納める物はきれいな物の方が良いわけで、白い物が好まれたと思うのが自然です。
蛤の調理としては、古事記には膾が出てきます。焼き蛤にすると貝覆い用には出来ませんから、蒸すか茹でるかして食べたものかもしれません。
京都は応仁の乱で町が焼け野原になり、多くのものが消失しています。平安時代の貝覆いも文献で文字でしか残っていません。
貝覆い用の蛤貝を集めよ、と指示したと言うような文献が今後出てくれば、また貝覆いの起源について新しく考え直さねばなりませんが、今の段階では貝覆いという遊びの発生には、まずその遊びが可能な、キズも無く、色柄、サイズが揃った貝が京都の貴族の屋敷にあってこそ、と思います。貝覆いのセットがある程度、容易につくれたから貝覆いという遊びが生まれたのではないでしょうか。
今ぞしる 二見のうらのはまぐりを 貝あはせとて おほふなりけり
私はこの歌が大好きです。とも藤の屋号「貝合わせ貝覆いとも藤」もこの歌のイメージからのものです。「落ちている貝だけで貝覆いをつくりましょうよ」みたいな会話がもしかすると女達の間であったかもしれません。
日本の蛤の漁獲は平安時代よりもずっと少なくなっており、宮崎県では昨今、ゼロとなりました。平安時代には今よりももっと浜に蛤が落ちていて、中には遊びに使えるようなきれいな物があったかもしれません。
自分たちで拾ったものでつくりましょうよ、というのはいかにも女性の考えそうなことで、この頃の女性達は、衣服を縫うことをはじめ様々に手づくりするのが普通でしたから、貝を拾ってゲームをつくることもあったのかもしれない。
ただ、それは起源ではなく、そもそも元になる貝覆いがあってこそではないかと思いを巡らしています。
ビーチコーミング(漂流物収集)は古くから世界的にあることで、海からの漂流物を集める行為は人々を魅了してきました。また平安時代には螺鈿用の夜行貝を沖縄諸島から調達しており、沖縄では古くから貝殻の輸出を産業として行なっていたようです。
日本は海に囲まれた島国ですから、各地で貝殻拾いなどをしていたことでしょう。そしてなかでも美しいものは売買されたかもしれません。平安時代のビーチコーミングに付いて今後も調べてゆこうと思います。
今後も蛤、そして「貝合わせ」「貝覆い」に関する情報を集めて考察を深めてゆきます。
蛤の貝殻ともに御祈祷して頂きました。
京都醒ヶ井住吉神社は、
平安時代後期に、後白河天皇の勅旨を受け、和歌の守護神として摂津国住吉大社より、藤原俊成卿の邸宅に勧請された新住吉社が起源です。
応仁の乱により衰退しましたが、御神体のみ災を逃れ、永禄11年、正親町天皇(←麒麟がくる、では坂東玉三郎が演じています。)の勅旨により現在地へ遷座され現在に至ります。
藤原俊成の子ども達といえば、藤原定家と建春門院中納言。
建春門院中納言(健御前)が女房時代の建春門院の御所の様子を記した回想録『たまきはる』には、在りし日に、貝覆い遊びを楽しんだことが書かれてあり、平安時代の貝覆いの遊びについて知ることが出来る貴重な資料です。
とも藤では、醒ヶ井住吉神社様で、毎年、蛤の貝殻ともに御祈祷をしていただいております。
この神社の界隈は父の生家のすぐ近くということもあり、私も2歳から小学校に入るまでの数年、暮らしていました。
蛤の御霊を鎮めるとともに貝殻を取り扱っている私たちの穢れもお祓いして頂き、また一年、蛤の貝殻の洗浄に励みたいと思います。
この度、とも藤の貝合わせの彩色をしております画家 佐藤潤の作品『月次絵』を無事にお納めすることが出来ました。
皆皆さまに心より御礼申し上げます。
かが万グループは懐石、鮨、天ぷら、おでん、お茶事、茶懐石など様々に展開されており8店舗あります。
今回の月次絵は、横幅3メートル。日本の歳時記が描かれています。
是非ご覧ください。